2011年07月

推進機関と規制機関

どっかのお嬢さんは人生の岐路に立って悩んでいるらしいのだが、
オジサンも精神の危機である。

昨日からずっと考えているのだが、さっぱり分からん。
どうして、2つの別々の機関が必要なのか?

ゆうべのNHKニュースでも小野文恵お嬢様が 「アクセルとブレーキの役割の・・」 とか目を吊り上げて仰っていたが、アクセルとブレーキ両方踏んだらヤバイんじゃね? とか思ったし・・

分かんないときは理路整然の共産党に聞くべし。

すると、「原子炉の設計、着工、運転から、核燃料の運搬、将来の廃棄物の処理まですべてにわたって責任を一元的に負えるような、開発側とは結びつかない原子力の安全体制」 の必要性は力説しているのだが、なぜそれが必要かの説明はない。

次善の策としてグーグル先生にお伺いを立てたところ、じつに夥しい記事・解説・ブログ等々がヒットするのだが、どれもこれも判で押したように、「原子力国際条約」に書いてあるからと書いてある。


そっかぁ・・この2つの機関の必要性については言及するも愚かなり、みなさん、その先の議論が大事と心得ておられるようだ。
オジサンみたいに 「どうして2つも必要か?」 などと野暮なことを考えるヤツは現代人とは言えないのか。


なんか 「私の価値なんて、どうでもいいんですぅ」 って気持ちになってきたぞ。
ひさかたぶりの精神の危機である





推進機関は事業者に対して事業の奨励を行ない便宜をはかるわけだが、それはあくまで国益の増進のためであろう。事業の保安もまた推進機関から見れば国益を毀損しないためであるから、国益という観点からは、後者の「規制」と前者の「推進」は矛盾も対立もしない。これらを一つの機関が担うことに何の問題があるのか。



もちろん、当該機関が行なう推進の妥当性や規制の信頼性は常に検証されなければならない。そのために必要なのは、「規制機関」ではなくて「監視機関」ではないのか。

忍法空蝉の術

昨日の記事(「空蝉」)は未来予知であったか(藁)

放射性物質、推定の千分の一工程表の信ぴょう性揺らぐ

福島原発、炉内の把握難しく

2011/7/31 1:04 日経Web刊

東京電力福島第1原子力発電所の1号機原子炉格納容器内の放射性セシウムの濃度が、想定よりも大幅に低いことが30日、わかった。東電は初めて実測値を公表したが、燃料の損傷から推定した値の1000分の1程度にとどまっていた。汚染水として建屋に大量に流出した可能性が考えられるとしており、今後調べる。原子炉内の状態を把握するのが困難であることが改めて浮き彫りになった。

1号機では29日に格納容器内の気体を採取した。分析の結果、セシウム137は1立方センチメートルあたり20ベクレル、セシウム134が同17ベクレル、ヨウ素131は検出できない濃度だった。

東電はセシウムの濃度を同1万ベクレル程度と想定していた。実際には想定を大きく下回り、換気をする前の原子炉建屋内の濃度とほぼ等しかった。セシウムが水に溶けて汚染水として流れ出た可能性や、気体の状態で配管の継ぎ目などから建屋に漏れ出た可能性があるという。

東電は事故の収束に向けた工程表を作るにあたり、原子炉内の状態や汚染水の流出経路をある程度仮定した上で計画を立てている。だが、実際には炉内の詳しい状況を把握できていない。東電の想定が実際の状況と大きくずれているようなら、工程表で示した対策の信ぴょう性も揺らいでくる。

(後略)


要するに格納容器は 「モヌケのカラ」、「スッカラカン」 であった、ということですな。

ヨウ素不検出ということは、核分裂反応は絶えて久しい、と。
セシウムが汚染水となって外部へ流出したとの解釈はよいとして、その発生元であるウランちゃんは今いずこ?


原子炉解体という観点からは、作業がやりやすくなっているわけで、まことに結構毛だらけ猫灰だらけでございますが、、、

そういう問題じゃないだろ!!





http://www.asahi-net.or.jp/%7Eji7m-yjm/pictures/mp01.png

途中から話が逸れます


この記事を見て、ネアンデルタール人とホモサピエンスはセックスしたんだろうか? という極めて不道徳な疑問に取り憑かれ、色々と文献を漁っているうちに、去年のサイエンス誌の記事に辿り着いた。

ネアンデルタール人の遺伝子配列の調査から、我々と共通のDNAが発見されたというものである。
で、その記事を読もうとしたら、その下に、

To Quiet the Mind After a Tough Choice, Use Soap
(難しい選択の後は心を鎮めるために手を洗え)
というタイトルがあって、何じゃ?と思って、本文にざっと目を通すと、これがなかなかグーなのでありました。

要約すると、

最初の実験では、消費者調査の一環と称して、学生たちにCD10枚の順位付けをやらせ、5番目か6番目のCDのどちらかを選んで家に持ち帰るように指示した。この課題の後、手を洗った学生は、その後で同じ順位付けをやらせると前回とほぼ同じ順位を付けた。一方、手を洗わなかった学生は、前回選んだCDをかなり上位に位置づけた。後者は自分の選択を正当化しているように思われる。
第2実験では、2種類のフルーツ・ジャムからどちらかを選ばせて味の予想を評価させた。すると、手を洗った学生は一回目と2回目でほぼ同じ評価をしたのに対して、手を洗わなかった学生は1回目に選んだジャムの味の評価をさらに上げた。
このことから、手を洗うことによって過去の決定の痕跡が洗い流されるため、自らの決定を正当化する必要性が減少する、言い換えれば、難しい選択を行なったあとに手を洗うと、自分の決定を素直に受け入れやすくなる、という結論が導かれた。


手を洗うことと、心的な緊張を解きほぐすことの間に、密接な関係がある。
これは、身体を清潔にすることによって精神を浄化する、という宗教的な儀式に遡る。

キリスト教だとバプテストが最も典型的だ。



イスラムでも礼拝の前に体の一部を清める。
寺院には専用の部屋まである。



ガンジス川でのヒンズー教徒の沐浴はあまりにも有名だ。
屍体がプカプカと流れてくるそばで水浴びをしているとかいないとか。



仏教でも信心と入浴は深く結びついている。
たとえば、小生の好きな説話をひとつ。

光明皇后はある悲願のために、奈良法華寺の施浴において千人の俗人の垢を洗い流すことを決めた。ところが、最後の千人目にあらわれたのは、全身に血膿をもつ悪疾の患者だった。しかし、皇后は厭うことなく、背中を流し、さらに患者に乞われるまま膿まで吸い出してやった。その瞬間、浴室に紫雲がたなびき、患者は立ち上がって黄金の光をはなち、「我は阿しゅく仏なり」と言葉を残し消え去ったという。



もちろん、山伏さんだって頑張っている。




こうして見ると、身体の清潔さと精神の清浄さの間には抜き差しならない関係があるようだ。

ちなみに、清潔・清浄の反対の嫌悪については、身体的な嫌悪、たとえば、ひどく不味いものを喰ったときの「オエッ」と、不道徳なものを見たり考えたりしたときの嫌悪は、ともに脳内の同一部位(前頭葉や側頭葉)の活性化を惹き起こすらしい。
宗教的儀式のときや手を洗っているときはどうだろうか。


・・まさか、こいつらも同じメカニズムを持ってやしないだろうな。




これはお父さんたちへのサービス。
本文とは何の関係もありません 

texlive-2011 on Gentoo Linux (x86)


Gentoo Portage tree の texlive が 2010 から 2011(ただし、不安定版) にアップしたので、さっそくインストールを試みました。

数十個の関連パッケージのインストール中に、dev-texlive/texlive-basic-2011 の emerge に失敗したので、急遽 dev-tex/luatex を安定版(0.63.0)から不安定版(0.70.1)に更新しました。

今回のアップグレードに際しては、設定ファイルには影響が及んでいないようで、platex, dvipdfmx コマンドは従来通り正常に動作しています。

空蝉


  • この世に生きている人間。古語の「現人(うつしおみ)」が訛ったもの。転じて、生きている人間の世界、現世。うつそみ。
  • セミの抜け殻、またはセミそのものを指す夏の季語。
  • 『源氏物語』五十四帖の巻名の一つ。第3帖。また、その帖を中心に登場する架空の女性の通称。 ⇒空蝉 (源氏物語)
  • 能の演目。三番目物の本髭物。空蝉 (能)を参照。
  • 1979年に発表されたさだまさしの4thアルバム夢供養に収録されている曲。
  • 2007年に発売されたポルノグラフィティの7thアルバムポルノグラフィティに収録されている曲
  • 日本の官能小説家。「プリンセスラバー!」のジュブナイルポルノなどを執筆。
以上、ウィキペディア 「空蝉」 より。


追加すべき項目

セミの抜け殻は木にとまっているように見えても本体は既に別のところにある。色々な道具や動物を使って遠くにある草木を遠隔操作し、敵がそれに気をとられた隙を狙って逃走したり攻撃したりする技。「空蝉の術」

ただし出典が白戸三平の『カムイ外伝』だったか『サスケ』だったか記憶が定かではない。




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